活動報告

イベントや活動の記録とご報告です。peace flagプロジェクトとは何か?いままでどんなことをしてきたか?もわかります。

7月27~30日 大西暢夫写真映像展『そこに暮らしがあった』を開催しました

2017.08.22|活動報告

7月29日~30日、BITCUBEにて大西暢夫写真映像展『そこに暮らしがあった』+peaceflagカフェを開催いたしました。上映会+監督トークには約25名の方が参加してくださり満員御礼、質疑応答も続々。最終日も監督が在廊され、次々と訪れる方々と終了時間が来ても会話が途切れることがありませんでした。

ご参加いただきましたたくさんのみなさま、ありがとうございました!

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今回の展覧会を企画したBIT CUBE art spaceの真鍋さんに、開催への思いと展覧会のレポート、皆さんから寄せられた感想をまとめていただきました。この企画がじつはとても長い年月の中で培われてきたこと、大西さんの写真映像がそれだけ普遍的なことを伝えているのだなと思いました。ぜひお読みください。

 

以下、文責 BIT CUBE art space・真鍋奈保子

 

1.大西さんとの出会い~写真展開催への想い

大西さんとの出会いは1998年までさかのぼります。19年も前です。本屋さんで何気なく手にした大西さんの本『僕の村の宝物―ダムに沈む徳山村 山村生活記』がきっかけでした。

ダムのことも徳山村のことも全く知りませんでした。ただただその本に登場するジジババ(大西さんの呼び方)の笑顔と徳山村の暮らしにすごいエネルギーを感じました。私はごく当たり前に子供を育て仕事をして暮らしていたと思っていたのですが、自分の揺らがない心棒のようなものがどこにあるのかわからなくなっていた時でした。魂のよりどころというと大げさでしょうか。毎日の生活が、するすると上滑りしているような実感のない感覚の中にありました。子育てについても、仕事についても。暮らすことってどういうことなんだろう、生きていくって何?家って?家族とは? ・・・そんな時に出会ったこの本は私の学び直しの自分再生のきっかけとなりました。どんな時も元気にきちんとご飯を作って楽しく食べる。そんな単純なことを気づかせてくれました。

その年、大西さんにお願いして徳山村の写真展を開催しました。その会場にはのちに映画『水になった村』のベースとなった取材映像が流されていました。山に向かって手を合わせて祈るハツヨさん(ババのお一人)の甲高い声が会場に響いていました。徳山村から何人かのジジババが会場に来てくれました。たくさんのおにぎりとまるっと一本のきゅうりの漬物が、いつの間にか私の手の中にありました。みな楽しそうでにぎやかで私もその中にいてとても幸せになりました。でもその同じ時にハツヨさんがお亡くなりになったと知りました。忘れられない思い出です。

peace flag プロジェクトの掲げる“I hope peace”。その根幹にあるのは私たちの普通の暮らしがなにより大事、それを守ることが平和だと。では、私たちの考える普通の暮らしとはいったい何でしょうか。なぜ大事なのでしょうか。それをこの写真展や映画を見ながら皆さんと考えられたらと思い、今回の写真映像展を企画しました。

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2.写真上映展と大西監督のトークのこと

岐阜県徳山村には、ダム建設が決まってほとんどの住人が移転する中、村に戻って暮らしていたジジババがいました。大西さんが彼らと出会って15年後の2008年、徳山ダムは完成し、村はダムの底に沈みました。その間、ずっと村に通って取材をし続けた大西さんの写真と映像をまとめた映画『水になった村』(2007年)の展示上映会を行いました。同時に大西さんの著書『ここで土になる』からの抜粋で、川辺川ダム建設に翻弄された熊本県五木村に最後まで暮らした、一組のご夫婦の写真も展示しました。

ダム建設という巨大な事業によって、徳山村も五木村も、そこに暮らした人々は故郷を、住まいを、暮らしを支えた山や川を、そして生きるよりどころにしてきた大切なものを失いました。そんな重いテーマを内包しながらも、大西さんが私たちに見せてくれたのは、ジジババたちの生き生きとした豊かな暮らぶりでした。自然の恵みをいただき、自然に感謝し、自然に沿って生きる姿です。徳山村のジジババの明るいこと楽しそうなこと。五木村に暮らしたご夫妻のぶれない暮らし。ただ故郷で、この地に暮らしたいと淡々と日々を紡ぐ姿が村のシンボル大イチョウと重なって見えました。

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29日は上映終了後に大西さんのトークを行いました。
カメラマンという職業すら知らないジジババたちに「兄ちゃんどうやって食べとるの?」といわれながら、機材を水浸しにしながらババの摘んだ山菜を運び、五合の飯をババと二人でたいらげたり、ほぼ一緒に暮らすようにして撮影を続けていたこと。映画に登場するジジババたちはもうほとんどがお亡くなりになったけれど、村がダムに沈んでからも、徳山に暮らした一組のジジババの足跡を探し求め、北海道、長野、そしてまた徳山へ戻る、行ったりきたりの長い旅のような取材を続けていること。ババの話の断片から、遠い記憶の片隅に残るわずかな手掛かりを頼りに二人の足跡を見つける気の遠くなるような作業。偉人でもない有名人でもないごくごく普通のジジババの足跡から、その時代が、暮らしが、映像となって立ち上がってくるかのように思えて鳥肌が立ちました。人は本当に一人ではいきてないのだなーと。連絡もままならないような時代、それだけ人は頼り頼られ繋がって、生きてきた時代だったのだと。その時代の普通の人たちが何を求め、何を光に毎日を暮らしていたのか。この取材が、今後どのような形でまとめられるのかとても楽しみです。

3.展覧会を終えて

なぜ今「普通の暮らしが一番大事」と改めて考えたいと思ったのでしょうか。
戦争や災害、止まらないダム建設、何が目的かもわからない公共事業、東日本大震災による原発事故、原発の再稼働、住民を虐げ続けている基地問題、食の安全性、環境問題、差別・・・などなど、私たちの暮らしを脅かす問題は数えきれません。日本で、いや世界で、当たり前に過ごしていた日常を突然理不尽に奪われることがあちこちで起きています。当事者ではなくとも怒りを覚えます。どうしたらいいのだろうかと思案するとき力なく座り込んでしまうような絶望的な気分にもなります。そんな怒りや絶望が渦巻くその地にあっても、どことも変わらない日常があり、豊かな暮らしがあることを知るたびに勇気づけられるように思います。

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大西さんが写真や映画を通して私たちに見せてくれたジジババたちの笑顔、声、山の斜面を元気に登る姿から、片方に厳しい問題を抱えながらも変わらない日常があり、豊かな暮らしがあることを教わりました。一方で、その土地に根を張り、自給的な暮らしや自然の恵みをいただく生活をそのまま真似ることも目指すことも、よほどの条件がそろわないと難しいことのように思います。私たちのほとんどは、お勤めをし、スーパーで食材を買い、子供を迎えに行き、父母の介護に通い、たまには旅行に行き。そんな暮らしも普通の暮らし。どちらが良いとか悪いとかではないことは確かです。

時代とともに変化はあっても、一人一人が一生懸命こうありたいと希望を持ちながら楽しく豊かに自由に、そして平穏に日々営んでいくこと、それが普通の暮らしではないでしょうか。平穏にとは、自然にも環境にもやさしく。豊かにとは、文化や地域社会や歴史、生活の知恵などに裏打ちされた重層的な暮らしといえるかもしれません。日々の積み重ねで養われた暮らしです。徳山村でも五木村でもそんな暮らしがあった。あんなに元気で楽しそうにワサビを取りに行くために何時間もかけて険しい山を登っていたじょさん(ババのお一人)。スーパーで買い物をするじょさんのなんとつまらなそうなこと。長きにわたり受け継がれてきた暮らしがあった。それが消えた、のではなく奪われた。そのことの重大さに、大西さんは気づかせてくれました。どのような状況でも、生きる希望や夢や、楽しみや喜びを見出し、自然をいつくしむことこそ人間の本質である。そこからまた明日を生きるエネルギーも湧いてくる。怒りや悲しみも乗り越える力も湧いてくる。日々の暮らし、営みこそ、守らなければならないと思えました。

4.上映会に寄せられた感想より

〇映画も大西さんのトークも大変素晴らしかったです。神道の本質にあるものを徳山村に住まわれていた方達のお話を聞く中で感じさせてもらったように思いました。今宇治市図書館の蔵書を調べて大西さん、増山たづ子さんの本を借りる準備をしたところです。

〇参加する前に抱いていたイメージが180度変わった映画でした。その中にはおじいちゃん、おばあちゃんの日々の暮らしがたくましく、ほほえましく、温かく、そして淡々と描かれてていました。重いテーマにはほとんど触れずに、なのに見終わった後いろいろなことを考えさせられる映画でした。

〇福島から避難しているお母さんが言っていました。『帰りたいですよ。私の家なんですから』。その時の「家」は徳山村や五木村の「家」と同じ。